昨年2018年のバングラディシュミッション終了後、各所へのご報告やUNHCRへ提供する写真のディレクションと併行して2ndシングルの制作がスタートし、年明けにようやく録りものが完了しました。現在マスタリング中で、ようやくゴールが見えてきだしたところです。

そんな訳で、長らくのご無沙汰となってしまいました。
あらためまして、皆様あけましておめでとうございます。
理不尽な事ばかりが続き全く腹立たしい世の中ですが、気持ちだけは明るく、平穏な心で行きたいものですね。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、私のプロフィール(その1)です。

こちらがサイト等で紹介している、公式のプロフィールなのですが、

11月28日鹿児島生まれ。福岡・熊本で育つ。中学時代に見た、KATE BUSH のパフォーマンスに触発され、高校在学中より、熊本の劇団に所属。舞踏やマイムを取り混ぜた前衛的な舞台の他、TV・Radio出演、美術家とのコラボレーション制作やバレエ団との共演等、精力的な活動を行う。 同時期よりドラマーとして最初のバンド活動をスタートし、高校卒業後は、福岡の音楽事務所に所属し本格的にボーカリストとしての活動を開始。関東・関西へのツアー等、積極的な活動を行う。 事務所閉鎖後は福岡にてマイペースな活動を行い、2003年上京。英国音楽好き。

書こうと思えば色々と書けるのですが、音を聴いてもらう前になんらかの先入観を与えてしまうのはどうかなーと思い、削って削ってこの形にしたものの、せっかくのこの場なので、Wikipediaに載せたらおもしろそうなネタ?も織り交ぜつつ、少々細かく書いてみようと思います。


・11月28日生まれ。大貫妙子さん、原田知世さん、あべ静江さんと同じお誕生日です。
・鹿児島生まれではあるのですが、生まれた”だけ” で、鹿児島での記憶は全くありません。生まれて間もなく福岡に引越し、小学校の途中で熊本に引越し、高校卒業後に福岡に引越しました。結果福岡暮らしが一番長いです。
・母によると、生まれる前は東京の国立在住だったとの事。
・幼少期の福岡では山笠の終着点である福岡市博多区奈良屋町(知る人ぞ知るぱわあはうすの近所でもあります)と、多夢というライブハウス (シナロケがデビューライブを行ったところ) があった福岡市西区田島(現・城南区)に住んでいました。父は若松、母は熊本出身の、がっつり九州の血筋であります。

これは福岡市動物園での1枚かな?

奈良屋町の家では2階の窓から転げ出て(赤ん坊は頭が重いからね)、洗濯中に屋根の上を転がる私を見つけた母が、間一髪、転げ落ちた先で私を受け止めて一命をとりとめたり、とか、
究極的な運動音痴&びびりだったので、体育(肋木)の時間に「これはムリ」と判断して静かにその場から退出し、自宅に帰っちゃったり、とか、マイペースなのは子供の時からのようです。

多方、作文コンクール、感想文コンクール、作曲コンクール、絵画コンクールなどではちょこちょこ入賞したりして、当時から得手不得手がはっきりしてますね(笑)

熊本へ引っ越さず、そのまま福岡で暮らしていたら、多夢の近所でもありますし、間違いなくラバーソウル+ミニスカートのビート女子になっていたでしょうから(笑)、学童期から青年期を熊本で過ごしたというのは、その後の音楽等の嗜好性を形成する上で非常に重要であったように思います。

小学校高学年になった途端、父が漫画&TV禁止令を敷いた事がきっかけでラジオっ子になり、ラジオが英国ロックと小泉文夫先生のフィールドワーク音源=世界の民族音楽との出会いを生んで、”レコード店へ行くため”に、街の進学塾に通うような、音楽一辺倒の生活になりました。


大貫憲章さんのライナーにも描写されている通り、ケイト・ブッシュやデビッド・ボウイに触れた事で <ミュージシャンはパントマイムができなくてはいけない> と大いに勘違いし(笑)、高校入学から程なくして、劇団に所属。人前で本格的に表現活動を行う第一歩を踏み出します。

前例がなかったので入団の時にはかなりのすったもんだがあり、「やりたいなら必要なお金は自分で稼ぎなさい、勉強もきちんとしなさい」という母との約束で、劇団に所属してからは毎朝新聞配達をして学校に行き、授業が終わったら稽古場に行き、写真部所属でもあったので、稽古がない時は暗室に行き、帰宅して1時に寝て、3時間程寝て新聞を配って、、、という生活を高校卒業まで続けました。なので通学中のバスの中では泥のように寝ている人、かつ、熊本でおそらく98%のシェア(推測)を誇る地元の新聞に劇団が度々取り上げられていたので、見知らぬ人から「なつきちゃ〜ん♪」と街で声をかけられるような、そんな高校時代。


劇団に所属する少し前からドラムをはじめ、劇団所属と同時期ぐらいに「なつきちゃん以外は皆キーボードでドラム叩ける人がいないから」という理由で小学校時代の同級生から誘われてバンドをはじめました。はじめてバンドで演奏した曲は『The End of Asia (YMO)』。
また、はじめた当初は風景やTVなんかを撮影していた写真も、知り合いが増えるに従って、地元の先輩バンドを撮るようになり、

当時はバンドを撮影する人が少なかったので、バンドの方には何かと喜ばれてました。伊東ミキオさんが所属されていた M-CAKEというバンドさんにはネガごと差し上げたんじゃなかったかな?(うろおぼえ)


劇団所属時の主たる活動履歴はこんな感じです。パフォーマンスブームを反映して、定期公演以外のイベントの仕事も多かった。(一部年度の記憶が曖昧な箇所あり。すみません)

□ 劇団夢桟敷・第11回公演「改訂版・飛行人」(1985.2)
□ HONDA DJ-1 発売記念イベント@福岡(1985.3.)
□ 櫻まつり(1985.4.)
□ 劇団夢桟敷・第12回公演「スマイリングドール」(1985.5)
ー 熊本演劇フェスティバル参加
□ 劇団夢桟敷・第13回公演「改訂版・スマイリングドール」(1985.5)
□ 熊本音楽連盟第13回定期公演「カルミナ・ブラーナ」(1985.7.5)ー 特別出演
□ 街頭パフォーマンス「」(1985.8.)ー 熊本市新屋敷エリアを劇場に見立てた市街劇
□ 熊本夢桟敷・第14回公演「炎の回廊」(1985.12)
□ 熊本夢桟敷・第15回公演【怪奇幻想四部作企画1】「黒猫がおんねん」(1986.1)
□ 熊本夢桟敷・第16回公演【怪奇幻想四部作企画供曄峅訂版・四畳半夢の下張り」(1986.2)
□ 熊本夢桟敷・第17回公演【怪奇幻想四部作企画掘曄峅訂版・ピンク中毒」(1986.3)
□ 熊本夢桟敷・第18回公演【怪奇幻想四部作企画検曄峩飛ぶ魚」(1986.4)
□ 熊本夢桟敷・第19回公演「三日月少女」(1986.7)
□ 熊本市主催の博覧際にてパフォーマンス(1986.8)
□ 山鹿灯籠まつり(1986.8.15)
ー 熊本演劇フェスティバル参加
ー くまもと市民際企画参加
□ 熊本夢桟敷・第20回公演「炎の回廊2・不眠症パラダイス」(1986.10〜12)
□ 阿蘇火まつり(1987.2)
□ 熊本夢桟敷・第21回公演「浪漫時代」(1987.5)


舞踏的な要素を多分に取り入れていた劇団なので、バレエ団と共演したり(『カルミナ・ブラーナ』)、
前衛芸術家さんのオブジェの中で公演を行ったり(『空飛ぶ魚』『三日月少女』)、
市街劇を行ったり、非常に先鋭的な活動を行っていたんじゃないかなーと思います。
そういえば熊本市の主催のイベントではスリラーみたいなダンス(!)も踊ったなぁ。

オブジェに囲まれたギャラリーでの公演


当初鍵盤2名、ドラム1名ではじめたバンドは、友達が友達を呼んで、気がついたら女子8名の大所帯になり、アコーディオンだ、クラリネットだ、バイオリンだと、それぞれが自分の楽器を持ち寄って、かなりユニークな形態になっていました。まわりから推されてドラムからボーカルに転向し、このころはYMOのコピーではなく、ショコラータやMELONや、水族館レーベル等から選曲してカバーしてました。ヤマハのコンテスト(予選)でベストパフォーマンスショーを頂いたりしたものの、私自身は元々誘われた人という事もあって、自分がやりたい音楽というよりは、メンバーみんなが映えるバンドだから高校卒業したら自分はフロントはやめてプロデューサー的な立場になろう、と、そんな事を考えていました。が、自主制作した卒業ライブがきっかけになって福岡の事務所に誘われる訳です。

写真はデモ録音を終えた後、その後のレコーディング計画を社長から説明された時に頂いた人選リスト。  
実現していたらどんな音になっていたんでしょうねえ。
特に年功序列な福岡の環境では、まずは先輩をメジャーに送り出す事が命題になり、ようやく自分の活動体制が整った時にはその事務所はなくなってしまうのですが(涙)

 

 

〜つづく〜

 

 

 

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